手話という言語:私の人生にもたらしたもの
私は生まれた瞬間、産声をあげなかったという。しばらくしてから泣き出した時、母は私の泣き声を聞いて安堵したそうだ。聴覚障害があったのはこの頃からだったのかもしれない。
私は日本の中央あたりに位置する京都の北部で誕生した。1歳の頃のある日、両親に大きな病院へ連れられた。私だけが分厚い扉の部屋に入れられた。ガラスの向こうのお母さん、なんだか悲しそうな顔をしてる。なんでだろう?
「両感音性難聴による聴覚障害」
これが私の障害だ。この診断が下されたのは1歳10ヵ月の時であった。また私は他の子どもたちと比較して発達が遅れていたという。
山本真記子(やまもとまきこ)さんは生まれつき耳が聞こえず、日頃は読唇(どくしん)や身振り、筆談、そして18歳の時に出会った手話でコミュニケーションを取っています。これまでの様々な経験や挑戦を経て、「いつか、聴覚障害について広くお伝えしていきたい。そして大切な方々の人生を応援したい!」と思うようになりました。
例えば1歳前後の乳児をうつ伏せに寝かせると、多くの乳児は腕をまっすぐに立て、腕立て伏せをするような体勢になり、身体のバランスを取るという。しかし私の場合はスムーズに上体を起こすことができなかったそうである。そのため、知的障害または発達障害ではないかと診断した医者もいたのだという。
家族の声に反応しない。大きな音がしてもびっくりしたり泣き出したりしない。違和感をおぼえた両親は私を舞鶴市、京都市、神戸市など、方々の病院へと連れて行った。そしてついに、2歳間近になった私に「発達の遅れは耳が聞こえていないためだろう」という診断が下されたのであった。
大病院では受けた大音響の轟き渡る防音室での検査では、私はその音に対して全く反応を示さなかった。母は「こんな大きな音でさえ聞こえないのか!」とショックを受け、その後は毎晩のように泣いて過ごした。
「私の片耳をあげたい」「この子と一緒に死んでしまおうか」という考えも頭をよぎったという。
そんな母の救世主は、かつて神戸聾学校で教頭として勤めていらっしゃった今西先生であった。今西先生は「いつまでも悲しんでいては前に進めません。あなたはまずこの子に言葉を与えることが先決です」と母を諭し、励ました。
今西先生の助言のお陰で、母は今後の方針に目を向けることができたという。
ある日、胸におおきなポケットのついた服を着せてもらった。そこに入っている機械から延びる細い紐。先端に付いた丸いものを耳に入れられる。すると突然、私の耳に今までと違う感覚が走った。
何これ?何が起こったの?
それは「補聴器」といって、私のように耳が聴こえない人々が装着する機械だった。私は初めて、この世界には「音」というものがあふれていることを知った。
我が家は小さな酒屋を営んでいた。家には頻繁に電話がかかってくる。いつもは家族の誰かが早く電話を取るので、コール音はすぐに止まる。でも、あの日はなかなか鳴りやまなかった。
また、お客さんからかな?
いつもはすぐに誰かが取るのに、今日はずっと鳴ってる。
私が取ってみようかな?
もしかしたら、私も誰かと電話で話ができるかもしれない!
ワクワクしながら受話器を取ってみた。
「もしもし!まっこショップです!」
「・・・・・」
何も聞こえない。私も、お母さんみたいに話さなくては!
「はいっ!はいっ!わかりました〜ありがとう~!」
ガチャリと受話器を置いた。
すると、急いで母が走ってきて… 叱られた。でも、私は生まれて初めての電話体験に大満足だった!お話はしっかりとできなかったけど、電話で話すことはきっと楽しいんだろうな。
私もいろんな人と話がしてみたいな。そう思った。
ある日、母から「今から、まっこに勉強を教えてくれる東(あずま)先生へ挨拶に行くよ。」と言われた。 到着した場所は普通のおうち。中から出てきたのは優しそうな女の人だった。
「あなたのお手伝いをするわね。」
東先生が言った。それが東先生との最初の出会いだった。
東先生との時間は楽しかった。勉強だけでなく、絵本を読んだり、山に一緒に登って草木の話を聞かせてもらった。 近くの河原へ散歩にいった時はシロツメクサの冠の作り方を教えてもらった。 たくさんの野花が咲き乱れる土手に座って、先生が握ってくれたおにぎりを食べた。おにぎりは塩味がきいていて、本当に美味しかった。
小学校を卒業した私は、近くの中学校に進学する。そのころから耳の調子が段々良くなくなってくる。補聴器をつけていても、聞こえる声が途切れ途切れで周りの人が何を言っているのかわからないのだ。時々なんとか聞きとれる音を頼りに、話す人の唇の動きを見てなんとか理解しようとしていた。
やがて高校生になった私は、ある日突然、激しい耳鳴りに襲われる。耳鳴りは耳が破れるかのように激しく響く。
どうしてしまったんだろう?そして、その時から私の左耳は完全に聞こえなくなってしまった。
私はその頃から人の顔を見ることが怖くなっていた。そしてクラスメイトたちとも距離を置くようになっていた。楽しかった東先生との勉強の時間も笑顔でいられなくなっていた。
高校卒業の春、私は大学に進学することになった。
東先生からも卒業。
旅立ちの前日、東先生へ挨拶をしに行った。12年間の日々をが頭の中を駆けめぐり、涙があふれる。困った時、辛い時、嬉しい時、楽しい時、いつも先生がそばにいてくれた。
黙って涙を流していた私に、東先生はこう言った。
「いつかね、あなたはきっと花咲くときが来るよ」
私は大学の門をくぐった。そして、手話サークルに入部した。それまで習得しようともしていなかった手話を身に付けたい、と感じた。手話を習得するにつれて、だんだん自分の思いを伝えることができるようになった。人の顔を見るという恐怖心がいつの間にか消えていた。手話を一緒に学ぶ仲間たちとの時間が楽しいと思えるようになった。
気づけば、大学のキャンパス内ですれ違う人たちに自分から挨拶をするようになっていた。自分でも信じられないほど多くの友達ができた。私は心から笑うことができるようになっていた。
手話ってすごい!
自分の思いを伝えることができるようになった。それだけで、こんなに世界が変わって見える。もしかしたら、私のように自分の気持ちが言えるようになったら、
もっと幸せになれる人がいるかもしれない!
私は小学校などで1日限定の手話講師ボランティアをした。私の活動でもっともっと幸せな笑顔を増やしたい!私は全国ろうあ大会や、ろうあ(Deaf)連盟に加入して活動を始めた。
そこで、世界には聴覚障がい者の社会的権利がない国が多くあることを知る。発展途上国では聴覚障がい者には働き口がほとんど無いところもある。私にできることがあるならば協力したい!ミャンマー派遣事業に参加した。訪問先は、ヤンゴン市内にあるメアリー・チャップマン聾学校。この聾学校の子供たちは手話ができ、楽しそうに学んでいるらしい。
「卒業した僕たちの先輩たちが、近くで仕事をしています。」
卒業生が運営している指圧センターを訪問することにした。ミャンマーの聴覚障がい者にはほとんど仕事がないのに、卒業後の働き先があるなんてこの学校は素晴らしい!と感じた。けれど、現地で私が目にしたのはそれとは対照的な現実だった。1時間の指圧で彼らが得られる収入はわずか200円ほど。
彼らが語るのは、
「仕事があるだけ幸せだよ。」
「私たち障害のある人は社会の役に立たないから。」
「親や周りの大人、社会からそう言われてきたよ。」
え?社会の役に立たない?自分のことをそんなふうに感じてしまうなんて。笑顔の彼らに見送られながら帰路についた私は笑顔ではいられなかった。私ができることが何なのか分からなくなった。そして国際協力について、しっかりと学びたい、という気持ちが湧いてくる。
私は留学を決意した。目指すは福祉大国、国民の幸福度はほぼ世界一、そして「世界ろう連盟」の事務所を構える国フィンランド!
フィンランドにあった聴覚障害者向けの学校は、年齢や国籍などを問わず入学できる。
学校でのランチタイム、たくさんの人たちに積極的に話しかけている青年がいる。
私とも目が合った。彼が笑顔で話しかけてくれた。
「僕はイラクから来たんだ。ここに来て手話ができるようになった。フィンランド政府の支援にとっても感謝してる。今度は自分が誰かの力になりたい。」
ここにいる人はみんな辛い境遇からやってきたと聞いていたけど、信じられないほど彼の笑顔は素敵だった。
「来年から車の修理をする仕事をすることになったんだ!いつかフィンランドの永住権を取って、家族と暮らしたいと思っているよ。」
彼の手から紡がれているのは夢や未来への希望。ミャンマーで出会った、あの子たちのことが頭をよぎった。
「仕事があるだけ幸せだよ」
「私たち障害のある人は社会の役に立たない」
同じ地球で生まれたのに、環境も似ているのに、まるで考え方が違う。フィンランドの支援は、ただお金や環境が与えられているだけではない。幸福になる考え方になれる。これこそが一番の「支援」なのだろう。
私がやりたいことは、これ!
誰にでも、夢を、未来への希望を抱く権利がある。私はそれを多くの方々に伝えたいし、そういった「場」を創りあげたい。
フィンランド留学を終えて帰国した私はブログやSNS、講演活動などを通じて経験や思いを発信した。すると、多くの人々から
「フィンランド政府の支援は素晴らしいですね。」
「途上国では聴覚障がい者たちに職がないなんて全く知りませんでした。」
「もっと情報を発信してほしい。」
とメッセージをいただいた。
また、同時に
「ボランティア活動をしたいと考えているけど、何から始めたらいいかわからない。」
「募金に協力したいけど、本当に困っている方のために正当に使われるのか心配。」
という声もあった。
まだまだ知られていない現実を知っていただくことの必要性と支援する側にとっても安心な仕組みづくりが必要だと感じた。
世界の現実や聴覚障がい者のことは日本ではまだまだ知られていない、と私は活動をしていて思う。
そして世界中のどの地域に住む聴覚障がい者にも、幸せに自分らしく生きていくことの素晴らしさを感じてほしい。
私が目指しているのは、発展途上国においても制度を整え、学びの機会を創造すること。国際協力事業に携わって世界平和に貢献すること。自分の周囲にいる人々の人生を明るくし、応援すること。
そして、一人一人が社会の大切な存在として、正当な賃金で働けることが当たり前の世の中になること。できることならば聴覚障害を持つ方々や高齢などによって耳が聞こえない人たちにとって、転機のきっかけとなる活動を続けること。
この夢の実現はとても困難なことだと自覚している。しかし、大切なことは 困難な時こそどう考えるか、どう動くか。私は今後も活動を続けてゆくつもりだ。
仲間に囲まれながら活動すると、自分の存在価値を感じるものである。自分が生まれてきたことの意味を実感できるから、私は精一杯活動したい。何も行動を起こさない人生だったら、生まれてきたことの意味が薄くなってしまうかもしれない。それを肝に銘じながら、今日も私は家の玄関の扉を開ける。扉を開けた先には、輝かしい夢の世界が、無限大の可能性が広がっている。
「いつかね、あなたにはきっと花咲くときが来るよ。」
支援を受ける側にとっても、支援する側にとっても希望の花を咲かせる。
自分の使命を、ようやく見つけることができた。